“A New Beginning After 20 Years”

 

メッセンジャー会社は、通例的に入った順に「メッセンジャーナンバー」が与えられる。クリオシティも代表の柳川健一が“001”で、その後は20年以上にわたって多くのメッセンジャーたちがクリオシティに入ると同時にナンバーを受け取り、現時点で180番台まで達した。

 

ちなみに、STORYのインタビューシリーズでVol.2に登場したJAGは“030”、Vo.3に登場した北極は“026”。彼ら以外にもクリオシティには、創業時から初期に入ったメッセンジャーたちが現在でも数多く在籍しており、その土台の強固さと絆の深さが会社を支えている。

 

そしてその中でも、断トツで早いメッセンジャーナンバーを持つ男こそが、“007” キン。現クリオシティにおいて創業メンバーを除く最古参で、クリオシティからキャリアをスタートした生え抜きで、2025年の今もなおクリオシティで走り続ける愛すべきメッセンジャーだ。

 

未知ゆえの強烈な憧れ。初めて見たメッセンジャーとピストバイク

 

横浜生まれ、横浜育ち。教師の両親と、双子の兄弟がいるキンこと市川尚志は、小中は野球に励み、高校は部活に力を入れることも特になく、ゆるりと過ごした学校生活。自転車に関しては、ごく普通に通学や遊びに行くときなどでマウンテンバイクに乗るぐらいだった。

 

転機は大学卒業後に訪れる。キンは消防士を目指して体を鍛えていた時期があり、通っていたジムでトライアスロンをやっている人と出会う。そして誘われる形で初心者向けのレースに出てみることになり、そのときにトライアスロン用のロードバイクを初めて買った。

 

「いわゆるちゃんとしたスポーツバイクに乗り始めたことに加えて、これはベタでお恥ずかしいけど、映画『メッセンジャー』(1999)を見た影響もあったと思います。あのときは情報が少ない時代で、特にメッセンジャーやピストバイクは都市伝説みたいな感じだったけど、あの映画を見てすごく惹かれて。でもうちは両親が教師だったし、当時の自分は職がなかったのもあって、『メッセンジャーをやってみようと思うんだけど』って言ったら猛反対されましたね」

 

それでもキンは両親の反対を押し切り、メッセンジャーになることを決意。インターネットも今ほど普及していない時代に限られた情報を辿り、何とかクリオシティの募集を見つけた。ちなみに当時の横浜には、クリオシティを立ち上げる前の柳川が所属していたヨコハマメッセンジャー(YM)も存在し、のちにクリオシティに入る北極やJAG、SAIなどもYM出身だ。

 

キンはクリオシティに履歴書を送ったものの、しばらくして「採用枠が埋まってしまった」との連絡が。「もしまた求人の募集をするときに連絡してもいいですか」とも言われたが、可能性を探りたいキンはその間に、東京のメッセンジャー会社に履歴書を送ろうとしていた。

 

「サイクレックスはホームページが硬派な感じで印象が良かったのと、月収例に“40万”と書いてあって。でも今になって考えるとそれってたぶん、SINOさん(サイクレックスに所属していたメッセンジャーで、日本人初の『CMWC(Cycle Messenger World championships)』デリバリーレースチャンピオン)とかトップクラスの月収例でした。でも当時はよくわかっていなかったのでサイクレックスに履歴書を送ろうとしていたら、柳川さんから電話があって『前に採用した人が1週間で来なくなってしまって。良かったら面接に来ませんか?』と言われました」

キンのその後の人生を考えたときに、これが最初の大きな転機となった。

 

そのときのクリオシティの事務所はマンションの一室で、キンが入ったときはメンバーが3人だけだった。面接の日、柳川から「事務所の近くにあるローソンに迎えに行くので!」と言われて待っていたキン。しばらくすると、手放しでピストバイクに乗る柳川が颯爽と現れた。

 

「メッセンジャーもピストバイクも、実際に見るのは初めてだったのですが、一発でやられました。あと面接の前にも“準備してくるからちょっとそれ読んでみて”と置いてあった雑誌に付箋が貼ってあって、柳川さんが『CMWC』に行ったときの記事でまたやられて。面接は柳川さんが2時間ぐらいばーっと喋って、自分は最後に“お願いします”とだけ言って終わり。それまで就職活動とかも一応しましたが、初めて自分でやりたいと思った仕事がメッセンジャーでした」

 

クリオシティを支えた仕事と、シフトしたメッセンジャーの価値観

 

クリオシティに入り、メッセンジャーとしての日々がスタートしたキン。しかし、クリオシティは動き出したばかりで仕事はまだそれほどなく、さらに役目を終えた創業メンバーがそれぞれの事情でクリオシティを離れ、柳川を除くとキンが一番上の先輩に当たる立場となった。

 

「その後も東京でメッセンジャーをやっていた人が入ってくることはあっても、クリオでは創業メンバー以外で先輩という先輩がいませんでした。まあでも自分はどうしようもない人間だったので、逆にそこで責任感が芽生えたという意味では良かったのかもしれません」

     

しばらくするとクリオシティは、会社にとっての大きな柱となる港関係の仕事を獲得していき、メッセンジャーが代行手続きを行う“常駐”というスタイルの働き方が始まる。

 

「大手の会社から、常駐の仕事をメインで担当するメッセンジャーを3人でお願いしたいと言っていただいて、その仕事が取れれば売り上げ的に大きかったので、何とか初期メンバーから捻出しました。それが自分と今もクリオにいるマミーさん、あとチンネンというメッセンジャー。自分たちが常駐を担当するようになると本社に人が足りなくなって、そこから少しずつクリオシティでは港関係の仕事以外も増えていったので、働くメンバーが増えていきました」

それでもキンの中で常駐という新たな仕事に対して、当初は自分の中で少なからず思うところはあったという。それは、「バイクが2人、自転車が1人」という契約だったこと。

 

「当時はやっぱりメッセンジャー=自転車で、クリオにしても“自転車原理主義”みたいな考えに縛られている人が多かった。自分もそういう感じだったので、最初は『バイクか……』みたいな気持ちが正直ありました。でも会社としてはありがたい大きな仕事で、本牧にも大黒にも行くのでバイクじゃないと機動力が追いつかないし、お客様に対してもバイクの方がわかりやすかった。あのころの社長は今の自分とかよりもだいぶ年下で、社長に成りたて。それでもめちゃめちゃ頑張って資料とかを作っていたのも見ていたし、大企業の偉い方と打ち合わせをしてどうにかして取ってきた仕事だったので、それを知る身としてはやるしかない。それで自分もバイクの免許を取りましたし、その仕事がなかったらクリオシティは厳しかったと思います」

ただし、会社のためと常駐の仕事に徹していたキンだが、しばらくすると自転車への想いがむくむくと蘇る。常駐の仕事を始めて2年ほどが経ったころ、「俺はこのままここから出られないんじゃないか……」と思い始めたキンは、社長に直訴し、横浜本社の元のチームに戻った。

 

「やっぱり自転車に乗りたかった。ただ戻ったら実際のところは自転車が週2、バイクが週2、ディスパッチャーが週1みたいな感じで、それならと思って、社長に辞めたいと話しました。ただそのあと……自分が事故を起こしてしまって。それに対して社長がいろいろな面でサポートしてくれて、自分勝手ですが、辞めることをやめました。当時の自分は生意気で、歯向かってばかり。今となっては恥ずかしい話ですが、会社に反抗するメッセンジャーでした。でも柳川さんはそんな自分ですら見離さずに、会社にいさせてくれた。たぶん、人としての器が違う。だからいま自分がクリオシティにいる理由の大部分は、社長への恩返し。これは、書かないでほしい」

 

20年を経て知った、横浜の魅力とメッセンジャーとしての現在地

 

大きな気持ちの変化を経て、2010年代に入ってからのキンはクリオシティの東京事務所で勤務。主に貿易関係のお客様を担当する常駐として、自転車メインで仕事をしていた。

 

「お客様と同じフロアにデスクがあって、いわゆる会社員の方たちの仕事が見える状況が日常的にあると、『俺はこのままでいいのか』と思うときもありました。メッセンジャーって、言い方は語弊があるかもしれませんが、“ピーターパン症候群”みたいなところがあって。同じことを続けてそれがずっと楽しかったらいいけれど、メッセンジャーの仕事を辞めてほかの仕事を始めたときに、悩む人は多いのかなと。ただしその点で自分は、デリバリー以外の部分でも仕事先の人たちと関わりを持つことが多い環境にいられたことで、そういう人たちのことも純粋にかっこいいと思えたし、それが今の自分のクリオシティでの働き方にも繋がっていると思います」

そして、横浜と東京という異なる特徴を持つ街の両方で、メッセンジャーとして長年走ってきたキンだからこそ、改めて横浜という街の魅力に気づけた部分もあったという。

 

「横浜は昔から好きな街ですが、クリオシティしかメッセンジャーがいない。それが東京に行ったら、いろいろな会社のメッセンジャーが走っていますし、知り合いに会うと気分が上がって頑張れるみたいな感覚の違いはありました。逆にそういう環境に慣れていて横浜に戻ったら、寂しいのかなとも。ただ自分の場合は2年くらい前に横浜に戻って、改めて『横浜っていいな』と思いました。横浜駅の周辺は都会だし、中華街とか野毛とか昔からあるスポットもあって、みなとみらいや赤レンガはどんどんお洒落になっていくけど、ちょっと走れば埠頭でトラックしか走っていない。横浜は自転車で走るといろいろな街の表情が見られるし、そういう魅力を日々の仕事を通じて、本当の意味で知っているのはメッセンジャーなんじゃないかなと思います」

キンがクリオシティでメッセンジャーの仕事を始めてから、気づけばと言えるのは本人だけかもしれないが、20年以上の歳月が経った。それでもキンは偉ぶることもなく、驕ることもなく、むしろ謙虚すぎるスタンスで自身のメッセンジャーとしての現在地を捉えている。

 

「20年以上続けても、自分は何かを成し遂げたわけではない。周りにはすでに成し遂げている人もいますし、めちゃめちゃ信念を持って続けてきた人もいます。自分を卑下しているわけではないですが、メッセンジャーで『俺すげえぜ』って言っちゃう人は、やっぱりピーターパン症候群かなと。人によるけどクリオで言えばパッションみたいに走り続けるスタンスでいくのも超かっこいいと思いますし、自分の場合はメッセンジャー魂みたいなものが薄いと言われたらそれまでだけど、内勤も学ぶことがいっぱいで超楽しい。そのバランスが今は取れていて、この歳になってもそういう感覚でメッセンジャーを続けられているのはありがたいことだなと思います」

   

 

新たな入り口に立ち、再び動き始めたキンのメッセンジャーライフ

 

実のところ、キンは横浜勤務に戻る前に、体調を崩してクリオシティを離れていた時期があった。走り続けてきた男に必要だった小休止。キンに再び訪れた転機だった。

 

「あのときに社長が親身に話を聞いてくれて、戻れる道を作ってくれたことにもまた感謝しているので。普通に考えて体調を崩したあとに戻りたいと言われても、大抵の人は『大丈夫なの?』ってなるはず。でもそこは社長がみんなを説得してくれたんじゃないかと勝手に思っているし、クリオはいい人ばかりだから口には出さないでいてくれたけど、そういうのも全部含めて自分としては頑張るしかない。クリオでもう一度やっていくには、これまでの歴は関係ないし、頑張って認めてもらうしかない。やっと今、自分の中でまた入り口に立てたかなと思います」

20年以上を経て、メッセンジャーとしての新たな入り口に立つキン。現在は会社の中で“補充便”と呼ばれるカーゴバイク担当業務や四輪などを担当しつつ、必要とあれば他の業務も率先してこなし、A By Courio-Cityのサポートにも携わっている。今のキンはもしかしたら、クリオシティ最古参のメンバーでありながら、最もフレッシュな感覚を持って働くメッセンジャーなのかもしれない。そしてその内側には、自身が得た経験を、次の世代に繋げたいという想いも。

 

「クリオはいろいろな種類の業務があって、それに応じてさまざまな配送手段や働き方がある。もし若い子で自転車で仕事をしたい人がいるなら、自分よりその人を自転車で走らせてあげたい。自分はもう、いっぱい走らせてもらったので。これは恥ずかしいから書かないでほしいけど、自分は自転車に乗ってデリバリーをしながら、楽しくて泣いたことがある。そんな仕事って自分にとってはもうないだろうし、それを経験できただけでも自分は良かった。そういう気持ちを今の子たちにも味わってほしい。こんな体型になってバイクにばっか乗って何言ってんだと思うかもしれないけど、そういう感情を一度でも味わえたら、自分のスタンスができる。自分はそういうことを経験できたからこそ、今またいろいろなことにチャレンジできていると思うので」

クリオシティの仲間たちからは“キンちゃん”と呼ばれて親しまれている男は、普段は飄々と、淡々と、黙々と仕事をこなす。ただし近しい間柄の人はご存知かもしれないが、その内側には熱すぎるほどの、メッセンジャーとクリオシティへの「愛」と「感謝」が存在している。

 

それでもキンが自らの内側をひけらかすことは滅多にないため、このインタビューを通じて知ってほしい。クリオシティと共に生きる、キンというメッセンジャーが横浜にいることを。

Interview &  Text : RASCAL