“Unsung Hero of Courio-City”

 

メッセンジャーにとって大切なことは何か?

 

メッセンジャーと一口に言っても、さまざまなタイプがいる。とにかく自転車で走るのが早い人、接客や営業に優れた人、ディスパッチ(配車役)が得意な人、社内の調整を担う人など。少人数のメッセンジャー会社ではそういった役割をひとりでこなすケースもあるが、会社の規模が大きくなれば、所属するメンバーそれぞれの特色を生かした働き方が存在する。

 

今回のインタビューで紹介するメッセンジャー、その名も“北極”は、クリオシティを長年にわたって内から支えるオールラウンドプレイヤー。「北極がいなければ今のクリオシティはない」──それは共に働く者ならきっと納得するだろう。そして北極が語る言葉には、メッセンジャーが大事にすべき精神や、メッセンジャー会社が成長するためのヒントが隠されている。

自転車も知識も経験もなかった、未知なるメッセンジャーの世界へ

 

クリオシティの初期から所属しているメッセンジャーの北極は、生まれも育ちも横浜。この世界に足を踏み入れたのは今から25年前で、ふとした思いつきときっかけからだった。

 

「就職活動の時期になっても特にやりたいことはなかったのですが、大学でスキーを始めたらそこそこ上手くなったこともあり、ぼんやりと体を動かす仕事をやりたいという気持ちがありました。あとそのころにたまたま、テレビでニューヨークのメッセンジャーを特集した番組を観て。こういう仕事は日本でないのかなと思って調べたら、出てきたのはT-SERV。でも働くとしたら都内になるし、自分はそれまでいわゆるスポーツ自転車に乗っていたわけでもない。あとメッセンジャーは競技をやっている人などが、練習やお金目的でやるものと思っていました」

 

そんな想いを抱えつつ、とりあえず自転車を見てみようと思って北極は、横浜駅の東口にあるマイクスというアウトドアショップを訪れた。そして、その店の地下にある自転車コーナーで発見したのが、メッセンジャー会社の広告。求人ではなかったものの、そこには問い合わせの電話番号が書いてあったことから、まず話だけでも聞いてみようと北極は電話をかけた。

 

そのメッセンジャー会社こそ、のちにクリオシティを立ち上げるYANAKEN(柳川健一)や、『A By Courio-City(エー・バイ・クリオシティ』のプロデューサー・JAG(佐藤大気)など、現クリオシティのメンバーたちが何人も所属していたヨコハマメッセンジャーだった。

 

「それが大学4年の秋頃。面接をして採用してもらったものの、冬はスキーをやりたかったので、『春になったらまた連絡します』みたいな形で返事をしました。結果的に大学は4年で卒業できず、ただ次の春からヨコハマメッセンジャーの社長に自転車を借りて約3ヵ月、そのあとにマイクスで自転車を買って働きました。当時のヨコハマメッセンジャーは、面接に行ったときは7人ぐらいいましたが、実際に始めるときは社長と柳川さんともうひとりだけでしたね」

当時のヨコハマメッセンジャーでの仕事は歩合制だったが、北極は大学にも少しだけだが通っていたため、稼働するのは週に3回ほど。稼げるのはお小遣い程度の収入だったという。

 

「冬の間はメッセンジャーの仕事をお休みして、スキー場に住み込みでインストラクターのバイト。結果的にはヨコハマメッセンジャーが無くなる前にクリオシティへ移籍しました。ただ移るために辞めたわけではなく、メッセンジャーの仕事はもういいかなと思って、スキーの次のシーズンが終わったら就職しようと考えていました。そんな気持ちでしばらく適当なバイトをしていたときに、柳川さんから『クリオシティの仕事を手伝わない?』と連絡があったんです」

メッセンジャーという仕事を通して知った「横浜」と「自分」

 

「今からほかの慣れない仕事をするぐらいなら、知った街で、知った仕事をする方がいい」──最初はそれぐらいの気持ちだったという北極は2005年、クリオシティに加入する。

 

「創設メンバーは柳川さん以外はいなかったですが、今でも一緒に働くキンちゃんやマミーさん、去年までいた次長など6人ぐらいはいました。印象的だったのは、クリオシティに入って最初の給料が、ヨコハマメッセンジャーで一番稼いだときよりも多かったこと。報酬のあり方や料金の設定が違うので単純に比較はできないですが、これなら続けられるかもと思いました。それでも当時はまだまだ暇なときが多く、仕事中にランドマークのあたりで待機していると、まだヨコハマメッセンジャーにいてクリオシティに来る前の、サイやジャージが忙しそうに走っていて。『俺は仕事ないけどあいつら忙しそうだな〜』と思いながら見ていたのを思い出します」

 

乗る自転車はマウンテンバイクから、その後に流行を迎えるピストバイクへ。いわゆる自転車通学で使うようなママチャリではない、走れるスポーツ自転車は、メッセンジャーになってから乗り始めた北極。メッセンジャーという仕事を通して、生まれ育った横浜の街を知る。

 

「たとえば横浜駅から桜木町のあたりまで、実際はたいした距離ではないけれど、ちゃんとした自転車に乗るまでこんなに近くにあるなんて知りませんでした。それはメッセンジャーになってから得た発見。ただ自分は、元から自転車が好きでメッセンジャーになった人ではありません。昔も今も周りは自転車を大好きな人が多いので、いまだに自分は『メッセンジャーは好きだけど、自転車が好きって言うのはおこがましい』みたいな気持ちがあります」

 

クリオシティに入ってからも数年は、冬になると山で働き、春になると戻ってくるルーティーン。ただし3年が経ったころから無線で配車指示を出すディスパッチャーをやるようになり、そして30歳手前の結婚するタイミングで社員に。新たな人生のステージが始まった。

 

「当時はCMWC(Cycle Messenger World Championships=毎年異なる都市で開催されるメッセンジャーの世界大会)東京が開催される前で業界的に盛り上がっていましたが、昔も今も自分はそういうところに積極的に参加するタイプではないし、速いとかに興味がなかったというか、自信がなかった。それでも柳川さんがいろいろなイベントに誘ってくれて、京都ロコというイベントに初めて行ったときにはレースで表彰台に乗れたりもして。クリオシティのみんなでCMWC東京に向けて、みなとみらいなどでトレーニングをしたこともありましたね」

   

メッセンジャーという仕事で生きていける人をひとりでも増やしたい

 

2010年代に入ると、北極の仕事はディスパッチャーがメインになり、それが少なくとも約10年は続いた。その期間で、クリオシティという会社の規模感も変わり、一緒に働くメッセンジャーたちも若い世代が増えていく。その過程において、北極の中で感じた変化もあった。

 

「自分がメッセンジャーの仕事を始めたころは、収入がそれほどあるわけではなかったので、年柄年中、会社の同僚と一緒に遊んでいました。それはほかで遊ぶお金がなかったのかもしれないですが。若い子が増えてきたころは、仕事が増えて収入が少しずつ安定してきたのもあって、会社としても個人としても、いろいろな活動をしていた印象があります」

ただし、2010年代のメッセンジャー業界と言えば、決して明るい時代ではなかった。リーマンショック以降の経済の低迷、IT化による運ぶ荷物の変化など、さまざまな要因が重なり、業績が悪化するメッセンジャー会社が後を絶たなかったころ。ただしクリオシティはそれらの逆境に耐え、地道に仕事を増やしていった。その過程において、北極の中で心境の変化も。

 

「仕事の内容が変わっていき、ディスパッチャーなど外を走らない業務が増えていき、『俺はもうメッセンジャーではないのかな』と思ったときもありました。でも続けていくうちに目的が変わっていき、『メッセンジャーという仕事で生きていける人をひとりでも増やしたい』と思うようになって。自分だけ稼ぎたいというよりは、そういう考え方にシフトしていきました」

「考え方が変わっていったから、今でもメッセンジャーの仕事を続けられているのかもしれない」とも語る北極。メッセンジャーの仕事で生きていけるなら最高──そう思える人をクリオシティで増やせるように、会社にとって必要な裏方になると北極は決断した。

 

「見方によっては志が低いように映るのかもしれませんが、これも自分なりのメッセンジャーだと言っておけばいいかなと。メインで外を走っていなくても、会社として必要な仕事ですし、まったく関係のないことをしているわけではないので。自分は元から目立ちたい方ではないですが、かといって裏方が得意だったわけでもありません。でも結局はメッセンジャーが楽しいから続けられているので、その中で自分の役目を果たせればいいと思っています」

クリオシティにいるみんなが楽しく働けるような環境を作る

 

メッセンジャー会社は、入った順にNo.が与えられるのが通例。クリオシティも同様で、代表の柳川が「001」で、北極のNo.は「026」。現在ではそのNo.が170番台までいるわけだが、人材の入れ替わりが激しいメッセンジャー業界においてクリオシティの大きな特徴は、そのナンバーの一桁台と二桁台が10人以上も、現時点で会社に残り続けているということだ。

 

「クリオシティは成長し続けているという前提の上で、なんだかんだ居心地の良さはあるのかなと。古株だとキンちゃんやマミーさんは自分より前からいるメンバーですし、サイやジャージはヨコハマメッセンジャーのころからの付き合いなので、それはもう今では頼もしい存在。倉さんやパッション、チョモは東京営業所、のやぎやエリーは横浜の中心として活躍している。昔話はそれほどしないですけど、それぞれが会社の中で成長してきたのだと思います」

そして2025年の今、北極は改めて自分がメッセンジャーで居続けた理由、クリオシティで働き続けた理由を考えたときに、代表である柳川の存在が大きかったと振り返る。

 

「ヨコハマメッセンジャーでやっていたときから、柳川さんにくっついているのが楽しかった。メッセンジャーと関係ないイベントとかも誘ってくれて、遊びに連れていってもらったりして。この人と一緒にいればずっと楽しいに違いないと思いましたし、今でもそう思っているところはあります。柳川さんがクリオシティを立ち上げて声をかけてもらったときは純粋にうれしかったですし、柳川さんから経営的な視点で求められるものも変わっていきましたが、自分は突出した得意分野を持っていないので、その分、会社として必要な部分で動いていこうと」

「メッセンジャー=速く走って届けるカッコいい仕事」のような漠然としたイメージに縛られていた時代から、クリオシティでは通関手続き代行業務や常駐・定期配送など、お客様のさまざまな要望に応じて、書類配送業務にとらわれないプラスαのサービスを提供してきた。

 

「今ではクリオシティの中で当たり前になっている仕事も、始めた当時、走っているメッセンジャーたちを納得させることは大変なことだったと思います。メッセンジャーのイメージに憧れて入ってきた人に、これもメッセンジャーの仕事だよと伝えていく──柳川さんはメッセンジャーができる仕事の幅を広げるために、前例がなくてもやれる方法を考えていく人なので。ありがたいことに今はクリオシティにはいろいろな仕事がありますが、それは社長の考え方がみんなに浸透してきた結果であり、柳川さんが大事な決断をずっとしてきたからだと思います」

 

「もちろん、大変なときもありましたよ。柳川さんは前向きで、豪快な人なので」と笑う北極。ただし目指すものは間違っていないと信じる北極は、自分なりのスタンスで共に進んできた。そして2020年代は、メッセンジャーの日本大会(『JCMC 2022 Yokohama』)や世界大会(『CMWC 2023 Yokohama』の開催もあり、業界内外で「横浜」に注目が集まった。

 

「自分は東京の世界大会しか出たことがないけれど、クリオシティでCMWCに行っている人からどういうイベントなのかは聞いていましたし、まさかそれが横浜で開催されるとは、という気持ちでした。そんなことがあるとは思っていなかったし、誘致してくれた人たちには感謝しかない。自分はそういうシーンにあまり顔を出すタイプではなかったし、実際に開催されたときは裏方として出来る範囲で手伝う形になりましたが、本当に良かったなと思います」

メッセンジャーの世界に飛び込んで、気づけば四半世紀。地道に仕事をこなしながら、時折楽しみながら、北極は横浜という街で、クリオシティという会社で、時を過ごしてきた。

 

「ずっと続けていると、仕事が増えたり減ったりといろいろなことがある中で、クリオシティにおいては物事を滞りなく進めるのが自分の役目だと思っています。綺麗事かもしれませんが、クリオシティにいるみんなが楽しく働けるような環境を作っていくことが大事かなと。言ってしまえば自分にとってメッセンジャーは、何かを成し遂げたいというよりは、誰かの役に立ちたいみたいな部分が大きい。だから自分の話をしても、あんまり面白いことは出てこないですよ」

 

インタビュー終了後、横浜の事務所の2階に降りると、クリオシティの古株3人が業務後に話していた。北極が「自分の話は面白くない」的なことを言っていたと伝えると、「いやいや……」とその3人から、北極の過去の破天荒なエピソードが次から次へと飛び出してきた。

 

語る人間より、語られる人間の方が面白い。

前に出る人間と同じぐらい、裏で支える人間は逞しい。

北極のような人材が、メッセンジャー会社には必要だ。

Interview &  Text : RASCAL