“High Touch High Tech”

 

 

自らが生まれ育った街で、メッセンジャーとして生きる。

 

それが世界中の都市に存在するメッセンジャーにとって、まさに王道とも言えるスタイルであり、そのローカルプライドこそが、メッセンジャーのコミュニティを発展させてきた。

 

そして、その体現者のひとりが、横浜で唯一のメッセンジャーカンパニー「Courio-City(クリオシティ)」の代表・柳川健一、メッセンジャーネームは “YANAKEN(ヤナケン)” 。

日本にメッセンジャーの文化を。2003年、29歳でクリオシティを開業

 

「自分は高校までサッカーとラグビーに熱中して、大学ではトライアスロンを始め、そのときにロードレーサーに出会いました。そして大学の先輩に東京のメッセンジャー会社で働いている人がいて、『自転車に乗って稼げるなんて最高!』と思って応募したのですが、そのときは縁がなく。思い返せばそれが、メッセンジャーと関わりを持った最初の出来事です」

 

学生のときから海外への意識が強かった柳川は、大学卒業後にワーキングホリデーでニュージーランドへ。現地では英語の勉強とガーデナーの仕事をしながら、トライアスリートから借りた自転車に乗る日々。そして帰国後は、海外ロケのあるテレビ番組の制作会社に就職したものの、過酷な労働環境で身体を壊してしまい、そのときに健康志向が強まったという。

 

そんなときに柳川が、家の近所で偶然見つけたのが、“メッセンジャー募集”の張り紙。

 

応募したところ即採用となったが、その会社はしばらくして解散。さらにそのあとにヨコハマメッセンジャーという会社に入ったものの、在籍メンバーが次々と辞めてしまい、残ったのは当時の社長と柳川の2人だけ。波乱万丈のメッセンジャーライフがスタートした。

 

「当時の横浜はメッセンジャーを知らないという人がほとんどでしたが、街の中心部であれば、バイク便の仕事を自転車で成立できると思ったんです。ただしその時点では自分で起業するという考えはなく、ヨコハマメッセンジャーの広告塔として走っていました」

 

柳川は2000年と2002年に、メッセンジャーの世界大会として1年に1度、立候補の中から選ばれた都市で開催される『CMWC(Cycle Messenger World championships)』に参加して見聞を広めた。しかし、2003年の頭ごろに、3・4年間は仲間と共に力を合わせてやってきたヨコハマメッセンジャーが、やがて廃業することを社長から突然告げられた。そのときに柳川は、自らをさらに成長させ、日本にメッセンジャーの文化を根付かせようと決意する。

 

そのためのアクションとして、武者修行で玄人が揃う東京のメッセンジャー会社・サイクレックスに移籍。そして2003年には再び『CMWC』に参加した。そうやってメッセンジャーの階段を駆け上がったのち、同年10月、横浜でクリオシティを開業。柳川が29歳のときだった。

   

生まれ育った横浜で、メッセンジャーのサービスを作ることへの使命感

 

メッセンジャーになる前から異文化交流に興味があり、ゆくゆくは海外で働くつもりだった柳川だったが、さまざまな国を旅する中で得た経験から、「自分という人間がどの場所で役に立ちたいのか」を真剣に考えたときに、「生まれ育った横浜で働く」という郷土愛に目覚める。

 

「『地球を汚さない』『人との関わりを大事にする』という、自分が大切にしたいこともメッセンジャーという仕事やライフスタイルに合致しました。あと『CMWC』に行くと海外にはメッセンジャーを生業にする人がたくさんいて、なおかつ依頼する人にとってそのサービスが習慣や文化として日常生活に入り込んでいる。それを知ってなんて素敵なんだろうと。そういった経験から、自分が生まれ育った横浜で、しっかりとしたメッセンジャーのサービスを作ることへの使命感が生まれました。あとシンプルに、メッセンジャーのいない横浜は嫌だと思ったんですよね」

 

クリオシティの創業メンバーは、柳川とシステムエンジニアをしていた柳川の弟、元・ヨコハマメッセンジャーのふたりという4人。仕事の当てや後ろ盾、これからどうなるのかの保証もまったくない状態でのスタート。立ち上げから2年間は、年末年始の3日間だけが休みだった。

 

「クリオシティをスタートさせて最初は仕事が当然なかったため、朝から晩まで飛び込み営業。なかなかハードな日々でしたが、誰よりもメッセンジャーをしているという充実感もありました。結果的には3回目の創立記念日を迎える前に、土日祝は休みにして、営業時間も9時から19時までに。そもそもメッセンジャーで稼げる状態を知らなかったので、今よりさらに悪い状況になることはなく、これからどんどん上がっていくだけという気持ちでした」

柳川がかつて所属したヨコハマメッセンジャーは、デリバリー手段としてバイクを使わなかった。当時、東京のメッセンジャー会社も、スクーターをすでに導入していた数社を除いて同様。ただし、クリオシティの売り上げが伸び始めていたころに、大きな転換期が訪れる。

 

「仕事が増えていくにつれて、次第に自転車だけではどうにもならないオーダーが出てきました。クリオシティで働くみんなの中に“メッセンジャー=自転車”というこだわりのような感情があったのも事実ですし、メッセンジャーにとってスタイルは大切ですが、あくまでも仕事。バイクを導入して配送をしていることを表立って言っていない時期もあったのですが、みんなのためにもしっかりと言っていくことを決めました。それが2000年代後半の話です」

加えて当時から柳川は、メッセンジャーの仕事をこれからもっと増やしていくためには、自分自身がある種のPR対象として世に出ていく必要性も感じていた。そこで柳川は、メッセンジャーの認知度を上げるために、仕事以外でもさまざまなアクションを起こしていく。

 

「ヨコハマメッセンジャーでもクリオシティでも、初期のころからずっと広報活動を自ら率先してやっていました。『Bicycle Film Festival』という自転車映画祭の開催、『MSGR-Holic』という映像作品の制作、新聞や雑誌でのコラム執筆、メッセンジャーブースの出展、『濱バイク』という自転車イベントの主催など、いろいろしましたね。メッセンジャーズカフェ、通称“M’s Cafe”という日本中のメッセンジャーたちが参加するサイトの管理人もやっていました」

“クリオシティ”として、“メッセンジャー”として、大切にしてきたこと

 

クリオシティという会社の土台を固めながら、メッセンジャーの存在を広めていった最初の10年。試行錯誤しながらも、その後のクリオシティは毎年たしかな成長とともに業績を伸ばしていく。結果的に売り上げが落ちたのは、東日本震災の年と、直近ではコロナ禍の年のみ。経済に大打撃を与えた“リーマン・ショック”のときですら、どうにか持ち堪えた。

 

「その理由を考えたときに、大切なのは『お客様にとってなくてはならない存在になる』という結論に至りました。クリオシティがいないと仕事が回らないと思ってもらえる存在になる。メッセンジャーのサービスがインフラになる。そのためにはどうしたらいいのかをずっと考えてきました。その結果として、プロフェッショナルな“いますぐ届けるサービス”を軸に、“お客様ごとにフィットしたプラスαのお手伝い”も提供できるというクリオシティの強みが生まれました」

加えて柳川が、ある時を機に大切にしてきたことが、会社にとっての“快適な成長”。

 

「ただ闇雲に売り上げだけを伸ばせばいいものではないということに、続けていく中で気がつきました。会社としての“快適な成長”を超えてしまうと、現場で働くみんなにとっては苦痛になってしまうことがあります。それによって不協和音が生まれ、時間差でサービスが悪くなり、結果的に売り上げが落ちてしまう。そんな悪循環を避けるためにも、会社としての売り上げは伸ばしつつも、成長率というものをコントロールすることは常々意識してきました」

周りはこうだから、今まではこうだから。そんな社会全般の固定観念にとらわれず、愛する横浜の街で、クリオシティならではの方法で、メッセンジャーの価値を高めてきた。

 

「自分は何を生業として生きていくのかという選択の末に、メッセンジャーを選びました。そしてそのメッセンジャーの仕事を増やしていくには、どこまでカスタマイズができるのかが重要なことだと思います。仕事は与えられるものではなく作るものという考えは若い頃からあって、それは今でも変わりません。この仕事でどうにかなったら何の仕事でもできる。そのぐらいの反骨精神を持ってクリオシティという会社、そしてメッセンジャーを続けてきました」

メッセンジャーライフの節目。次の10年に向けて掲げた「VISION」

 

そして2023年は、柳川のメッセンジャーライフに大きな影響を与え、これまで何度も海外へ参戦してきた『CMWC』を、自らのホームタウン・横浜で念願の開催。メインイベントを日産スタジアムで実施するなど、大きなインパクトと意義を残す。そして同年10月にはクリオシティが創業20周年を迎えるなど、会社としても個人としても、節目となる1年となった。

続く2024年には、次の10年に向けて会社の「VISION(タグライン)」を“High Touch High Tech(顧客とのコミュニケーション×高度なテクノロジー=新たな価値の創造 ) ”に定める。ただしそのVISIONは実のところ、柳川が創業時からずっと掲げていたテーマだった。

 

「クリオシティの社名は、Courier City (=クーリエが活躍する都市 ) と Curiosity (=好奇心 )という2つの言葉をかけた造語で、ロゴは頭文字である “CC” と二つ巴 (陰陽) のシンボルを掛け合わせたもの。物事はすべて陰と陽から成り立ち、両者が支え合うことで互いをカバーして、発展へと繋がるという相対的自然観を取り入れています。それは現代の情報化社会に必要とされる “High Tech High Touch” に通じる考え方であり、それをメッセンジャーに置き換えたときに、『人間らしく生きること』や『柔軟にテクノロジーを取り入れること』がより重要であるという考えから、“High Touch High Tech”をVISIONとして掲げました」

クリオシティを率いて20年以上が経っても、柳川の向上心は衰えない。今なおメッセンジャーの未来のため、先の先を読む。知見をさらに広めたいという想いから、2024年にチューリッヒで開催された『CMWC』の際は、イベント期間の前後も使ってヨーロッパ各地を巡った。

 

訪れた都市は、チューリッヒ・バーゼル(スイス)、フライブルク・ヘルボルツハイム(ドイツ)、ストラスブール(フランス)、ブリュッセル(ベルギー)、アイントホーフェン(オランダ)、カトヴィッツェ(ポーランド)、コペンハーゲン(デンマーク)。自転車に関して先進的なヨーロッパの都市で、メッセンジャー会社や自転車メーカー&ショップを訪れ、現地の最先端に触れた。

 

「時代の流れに応じて、会社としてのDX化や、カーゴバイクをはじめとした新たな配送手段など、これから取り組むべき課題はたくさんあります。今まさに変革へとスピードアップしていく直前まで来ている予感があり、このタイミングで新たな知見を求めて、CMWCの期間に合わせてヨーロッパ各地を巡りました。約3週間という久々の海外の長旅でしたが、さまざまな都市で交流を深め、改めてメッセンジャーの連帯意識や自転車コミュニティの豊さを感じましたし、現地で得た知識や経験をクリオシティに持ち帰って形にしていきたいと思います」

また同時に、歴史を積み重ね、会社の規模が大きくなり、働く人が増えた今だからこそ、クリオシティとして大事にしたいことが柳川にはある。それは「チーム意識」と「献身性」。

 

「今後、クリオシティとして改めて大事にしていきたいのが、チーム意識と献身性。これまでを振り返り、あえてそれらをみんなに求めていきたい。仕事をしているとさまざまなことが発生しますし、誰かに手を貸して欲しいときにチームを臨機応変に作れるようになると、組織は強くなっていくのだと思います。クリオシティはそういう会社を目指していきたい。加えて、そこで働くひとりひとりが、常にお客様の方を向いているチームであり続けたいと思います」

 

古き良き伝統を愛しながら、流れゆく時代に応じて、未来を変える革新を追い求めていく。柳川の言葉や姿勢はまさに、“High Touch High Tech”そのもの。誰よりも人間味とハングリー精神を持つメッセンジャーが、これからも横浜の街で、クリオシティと共に生きていく。

Interview &  Text : RASCAL